the book for the backpakers


今日が(今日も)特別な日になった瞬間。
出逢い。
バックパッカーズ読本」


私は旅人ではない。
私は旅が苦手だ。(と自分で思う)
放浪したり、素敵な景色や建物を見たりということには興味が無い。
地元料理を食べるといったことにも興味が無い。
目的地を決めずに行動するのは怖い。
一番興味があることは、おもしろい人に合うこと。
生活してみること、その幸せも憂いも肌で感じること。
私は旅人ではない。(と思う)


成田空港から生まれた街に帰ってきて、思いがけずヒッチハイクをし、バリから帰ってきたばかりだという夫婦と移動中、旦那さんの方がわたしの大きなリュックを見るなり、「バックパッカーってやつ?」と訊いてきた。
わたしは「そんなところです」とその場では答えたのだが、バックパッカーってなんだっけという思いがその後なんとなく頭のなかにあった。


旅の予算が著しく失われてしまった今、戦意喪失気味であった近頃、
なにか安く海外滞在を続ける工夫はないかとこの本を手に取ってみた。
旅は工夫次第だ。


この本の冒頭は、「バックパッカー」ってなんだろう?という質問から始まる。
ーー以下一部引用。


バックパッカーとは、外見や行動スタイルでは定義できない。
ある意味、自由なスタイルをもっている旅行者でもある。
旅をすることーーあえて本書ではそう規定しようと思う。
しかし、旅をすること、つまり移動していくことは、簡単なようでいてかなりの精神力が必要になってくる。


 バックパッカーとは、街との訣別を何回も経験していく旅人だと思う。
ひとつの街が気に入る。
日々は快適に流れていく。
しかしある夜、ゲストハウスのベッドに体を横たえ、天井を眺めながら自問するのだ。
「これでいいのか」
そして身を起こす。明日はバスの切符を買いにいこう。そう自分に誓う。それがバックパッカーだと思う。
 旅はつらい。いつ着くのかわからない長距離バスに揺られ、暑い列車の中で眠れない夜を過ごす。置き引きにも注意を払わなくてはならない。目的の街に着き、背負うザックはずっしりと重い。その街に良い宿があるのかもわからない。そこに辿り着くまでには、セコいリキシャのおっちゃんとの値切り交渉も必要だろう。
 気に入った街を出るということは、そういう旅が待っていることを意味する。それでもあえて、街を出る。それがバックパッカーというものだと思う。
 責任はすべて自分にある。目的の街を決めたのも自分だ。そこまでの長距離バスを選んだのも自分だ。パッケージツアーのように、文句をいう添乗員もいない。すべてを呑み込み、移動していく。それがバックパッカーだと思う。
 なぜ、そこまでして旅を続けるのか。
「単純な好奇心ですよ」
バックパッカーは控えめに笑うのだろうか。あの角の先にある風景を見てみたい。一歩踏み出す動機は、たしかに単純な好奇心かもしれない。しかしあえて前に進もうとする内心にあるもの・・・それを好奇心と言い切れない気もするのだ。





このすべてに共感するわけではないけど、
イギリスから強制送還された飛行機の中で、絶望的な気分になりながら、わたしはこんなことを考えていた。
旅をするということは、現実逃避なんかじゃない。
海外だろうが、日本だろうが、ここは「現実」だからだ。
旅をするということは自分自身の現在と向き合うことなんだ。
日本という場所、わたしが生活してきた社会、そこから離れると「現在」しかそこには無かった。
間違いなく、すべては私の責任のもとにおこっていて、私が選択した「現在」。
勝ち取ってきた、あるいはつかみ損ねても続いていく、「現在」。
一度たりとも逃げ出すことはできない。
疲れたからと言って、放棄することはできない。
精神力、責任感、マネージメント力。
真面目に時と向き合い、生きる。
働く、食べる、遊ぶ、寝る。
これがこの3ヶ月わたしがしてきたことなんだ。と。


私は今、移動してみたい。
自分自身の現在と向き合いたい。
必死に生きたい、自分を自分で守りたい。
何かから逃げたり、素敵なことを期待するための移動じゃなくて、
私は今、移動してみたいんだ。(素敵なことは期待してるかも)

本屋、図書館と街


久しぶりの三島図書館。


地下の立体駐車場(整理番号式)がいまいち面倒くさくて嫌煙しがちなのだけど、行くたびに来て良かったなと思う図書館。


この静岡県沼津市での図書のお粗末さには本当に辟易する。
名古屋に住み始めた時に一番最初に自分(の育った環境)を呪ったのは、自分が発注してまで購入していたCDがとても身近に手に入ること。洋楽CDのバラエティ。ここでは歴史の目撃者になれるってこと。
それがわたしの18年間住んでいた街では気が付けもしないということ。
そして気がつかなくても世界は進んでいってしまうということ。
私が普通に暮らして来た街はそんなリアルなムーブメントから置き去りにされていたのにそれに気がつかなかったなんて!


たくさんの映画、私の住んできた街では到底目にすることができないような、インディペンデント作品たち。
たくさんの雑誌、本。
当たり前に存在する数々の専門誌。
刺激、刺激、刺激。
無限とも思われる知識欲の追求。
話が飛躍してしまった。とにかく本だ。



東京に行くたびに、名古屋でも、海外でも、私は本屋に行く。
私が18年過ごした街の本屋は、私にとって輝きを失った過去の場所になってしまった。


本と恋に落ちる。
新しい恋人たち。
本棚、そのすべてがまだ知らないことで埋め尽くされている充実感、それを手に入れたいという支配欲、最高の恍惚。
4時間でも5時間でも立ち読みする。
私が読みたいと思える本に数えきれないほどに、両手一杯にできるほどに出逢える場所。


本屋は街をつくる。
若者を育てる。
本ではなく、「本屋」が、だ。
「本屋」には責任があるのだ。
「図書館」にも責任があるのだ。


私は素敵な本屋のある街に住みたい。
素敵な図書館のある街に住みたい。
人生にいつまでも恋をするために。


三島図書館は新着図書を絶え間なく仕入れている(しかも多様なジャンルから)、
私を再び本と恋に落とす、数少ない場所だ。

なぜ僕は旅に出るのか?


なぜ僕は旅に出るのか?
ーー以下引用


(前略)
 日本にいるときよりも、海外に出ている方がはるかに生物として活性化しているというか、明らかにやたら元気になっているのである。僕はなにも「日本では生きている実感がない・・・」なんてつまらないことをいうつもりはない。ただ、五感が研ぎ澄まされるような緊張感と、エネルギーの湧出を覚えるのである。

 いや、そうでなければ、旅ができないのかもしれない。まったく見知らぬ国、自分ひとりが外国人で、誰も守ってくれないなかひとりで旅をするという状況になれば、身体が勝手に適応するのではないか。

 
(中略)
 不思議と頭が冴え、力がみなぎり、やる気が湧いてくるのである。日本で暮らしているときはヘタレな僕が、どういうわけだか強気になって、「矢でも鉄砲でも持ってこい」という気分になる。アドレナリンがほとばしってくるのをビンビン感じるのである。


(中略)
旅をしていれば脳内麻薬は分泌されまくりである。ボッタクリ連中との交渉。盗難に注意しながら乗る寝台列車。体験したこともない暑さや寒さ、日本で見られない壮大な大自然や、とてつもない人ごみ。こうしたいわばカルチャーショックをうけながら、バックパッカーは旅を紡いでいくのである。
 常に心身が燃焼しているかのような充実感。


(中略)
 自分が物語の主人公になったかと錯覚するほどの舞台装置が、どんな旅先でも用意されていて、ヒロイックな気分に浸れてしまう。
(中略)
 ネットの発達でコミュニケーションが疎かに・・・なんて話もあるが、僕は逆だと思う。旅先で出逢った人たちとは、ネットを介せばより緊密につながりを持てる。
 メールやSNSツイッターなどによって、旅行者同士のコミュニケーションがこれまで以上に促進される時代になってきたのだ。



この後半部分は今回の旅でものすごく実感したこと。
いままでSNSなんてくそくらえと思ったし、めんどくさいと思っていた。
けれどインターネット=international networkってこのためにあったんだ!
と思うような、skypeでの海を超えた、時間をまたいだ通話や、facebooktwitterでの近況報告と交換は本当に楽しい。
まさに、ネットを通してつながっているのだ。と思う。


旅のことに関して言えば、明らかに私を変えたことは前回の旅よりタフになったということ。とにかく選択選択、選択の連続。計画、計画、計画。だった。
毎日それで頭がいっぱいになる時間があって、でも奮い立たせてやり通した後得られる経験は、さらに私の次なる計画への原動力となった。
エネルギーがいるとはそういうことだった。
会社もない、学校もない、定期的に会える友達もいない。
自分を楽しませるには、自分自身がきっかけにならなくてはいけないのだから。