ことばについて私が思うこと


大学にいるときから思っていたのだけれど、
本当に頭のいい人=知的な人、そしてその考え=ideaを共有したいと思っている人、は、わかりやすい言語でしゃべることができる人だと思う。
というか、その「考え」を共有するためにどれぐらい噛み砕いて言葉にして伝えるべきか、というのを知っている人だと思う。


学生時代に、頭のキレる若い助手さんがいた。
彼は実際国立大学を卒業しているし、キャリアももっていたし本当にキレた。
けれど、彼は明らかに私たちの言語レベルで話すことを避けていた。
だから私たち生徒と、その助手さんの間にはいつも溝または壁があった。
共有するのを避けていたのもあると思うけれど、わたしはそんな彼を仮に助手であろうとも教育者としては認められなかった。
教育者たるもの、生徒との信頼関係は基本的にあるべきだと思うからだ。
けれど彼が口を開くとき、まるで違う世界に存在しているかのような言葉には、温度のないような気味の悪い感覚があった。


もちろん学生生活では、良い教育者たちにも出逢った。
彼らは人生経験者として、先輩として、私たちがまだ未熟であること、それが前提にあることを理解していた。
だから彼らから多くのことを学べたし、影響をもらうことができたと思う。


自分だけのボキャブラリーに終始するのはエリートのエゴじゃないか。
そこに羞恥心を感じることなんてない。
教育が違うから、あるいは馬鹿だから、理解し合えないんじゃなく、彼らが「意図的に」理解されるのを拒んでいるのだと思う。
本当に彼らが誠実なら、私たちが理解できるように、ものごとを呈示できるはず。



池上彰がみんな好きだ(少なくとも大衆に受け入れられている)。わかりやすいからだ。
彼の他にも同じような分野で活躍していて、テレビに出ていて、有益な意見を言っているような人はたくさんいる。
でもなぜ彼だけなのだろうか。もちろんメディアの戦略でもあると思う。
でも最大の理由は、彼が私たちの言語レベルにまで咀嚼して、彼の「考え」=「idea」を共有できるということを知っていること。
そして彼にはその才能があるということ。
池上さんと比べたらいけないかもしれないけれど、ある種の宗教団体や、歴史上の独裁者とかはこのことをよぉく知ってたんじゃないかな。
だからより多くの人と共有することができた。共感させ、尊敬させた。



森達也や、森巣博の本を読んで思うことはそのことだ。
彼らは、努力している。
そして本当に自分の立場を持っていて、できるだけ彼らの「idea」に気がついてほしい。
そして多くの人に行動を起こしてほしい。



日本語は、同じ物事を意味するのに複数の言葉が存在する。
だからこそ、知識人は言葉に気をつけろ、と言いたい。
少なくとも英語は、そういう意味ではとてもシンプルな言語だ。
つまり共有しやすいんじゃないかな。
逆に言えば、なんで日本で大きな、とくに政治的・社会的ムーブメントが起こりにくいかというのも、そこに理由があるんじゃないか?
見えにくい場所で自分に理解できない言葉で良いことを言っている人が多すぎるんじゃないか?
平たく言えば、あまりにも、エラい人の言っていることがわかりにくいんじゃないか?


本を読もう、話をしよう。
問題点はどこにある?
解決策はどこにある?
わたしはずっとそれが知りたいんだ。