森達也「視点をずらす思考術」:リテラシー力の必要性

視点をずらす思考術 (講談社現代新書 1930)

視点をずらす思考術 (講談社現代新書 1930)


この本に書いてある内容に興味を持ちそうな人が、このタイトルで手に取るかな。
「KY」という言葉を持ち出したのは少し失敗かも。この言葉は古くなるし。
でもあえて彼は使ったのだと思う、たぶん「KY」という言葉をつかう世代の人々にこの本を読んでもらうことを期待して。
この帯ーー空気を読むのをやめてみないか!ーーにも、「視点をずらす思考術」というタイトルもピンとこない感じがある。
それと、本文にかなり(私は)日常的には使わないような熟語が並べ立てられていて、もしかしたら読みにくくしているかもしれない。
でも、とにかくこの本を読み進めてみよう。
字も大きいし、雑誌のワンコーナーだと思って読めば2時間くらいだ。


これはやっぱり私のただのテイストなのかもしれないけど余談。
同じ「現実」について述べている文章では、最近の3人(村上春樹森巣博森達也)の中で一番村上春樹の本が消化しやすかった。
ぴたりとした動かしようの無い言葉で綴られていた。言葉を削ったり、肉付けしたりする必要がなかった。
「面白い考え」に、「良い文章」で出会うのが難しい。


森巣博と共通して言っていることは、
日本のメディアが機能していないということ。
まず、権力を監視すべきメディアが、たとえば不当逮捕を報道しない。
オウム真理教でいえば、彼らを絶対悪に仕立て上げ、逮捕は報道しても、その後のえん罪報道をしない。
そして逮捕報道では人権が保証されてなどいないーーなぜなら彼らは悪人だからだという視聴者の意識。
権力を監視するのではなく、「悪!犯罪者」を世間にさらすことにばかり忙しい。



それから日本という国に住む日本人という感覚で当たり前に生きてきたことには疑問を持つべきだということ。


ーーー本文より参照
国家は、想像の共同体。国境という線は自然にあるわけではない。
あくまでも人為的に作られるもので、それを成立させ持続させるためには、民族や宗教や言語など、構成員すべてに共通する属性を掲げることが手っ取り早い。
でもこれは厳密にはフェイクだ。民族や宗教や言語が完璧に一枚岩の国家など存在しない。


つまり、日本にいたら日本人にしかあわないしみんな日本語をしゃべるし、日本には国境がある(島国だから可視化されている)。
というのは、思い込みでしかない。一部分しか見ていないということ。
そしてそれが外に向かった場合、森巣さんいわくそれは「原理主義」つまりイスラム圏の、異教徒を排除しろ!という感覚と同じだ。
わたしたちはもちろん、そんな過激な人々とは違う、と思いたいけどどうか。
多くの政治家たちはそういう考えのもとに発言するから、「美しい国、日本」だとかなんとか。
生まれた土地に人が本能的にもつ愛着心は、愛郷心(Patriotism)で愛国心は(Nationalism)。2つは違う。
Nationalismは危ない。戦争に始まる悲劇や惨劇を生みかねない。
なのに未だ、教育基本法や、国歌斉唱問題や、国旗掲揚なんかで、「愛国心」だとかで国民の気持ちの統一を図っている。
変なことにアツくなっちゃって、無意味なプライドで政治家たちが論争してんなーなんて甘いこといってる場合じゃないと思う。
愛国心」にこだわる先進国、日本。
愛郷心(Patriotism)をもつ、欧米の国々からは理解できないし、不自然にうつる。
違いをしっかり知るべきだ。



これは森巣博の著書にも書いてあったことだけれど
2001年、天皇が「桓武天皇の生母が百済武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と公式発言した(つまり我々は韓国人と血を分けた民族だと認めた)。
ことに対して、メディアはほとんどこれを黙殺し記事にしても小さなものにしかしなかったという事実。
海外メディアではこれは大々的に取り上げられたらしい。
これを私は知らなかったし、それだけメディアはウソをつくということの良い例だと思う。
都合のいいように編集し、国民を煽動しているんだ。イメージを崩さないように。
天皇は日本の象徴である」「オウム真理教信者の全ては罰せられなければならない絶対悪だ」など。



全編を通して、まず読者に求められているもの、それはリテラシー力を身につけることだ。
私もこのリテラシーという言葉自体は大学ではじめて知った言葉なのでここに説明すると、


ーー本文より参照
 翻訳すれば、「メデイアを主体的に解釈する」とか、「メディアを批判的に解読する」もっとくだけて言えば、「テレビや新聞、雑誌などのメディアの情報を鵜呑みにしない」ということだ。
そして戦争を起こさないためにもメディアへのリテラシーは必要。
大事とか重要のレベルじゃなく、必要。メディアのためではなく、僕たちのために。僕たちの子供のために。
ただしメディアの嘘を見抜くことなど無理。例えば映像の嘘は、一応は映像のプロである僕にもほとんど見抜けない。なぜなら表現とは、そもそもが嘘の要素が混在する領域なのだ。
 だから僕のメディア・リテラシーの定義は、「メデイアは前提としてフィクションであるということ」と「メディアは多面的な世界や現象へのひとつの視点に過ぎない」という2つを知ること。


この本で一番伝えたかったのはこの部分じゃないかなと思う。
その例として、オウム真理教報道、皇室報道なんかが例にとられている。
そして日本のメディアからの情報を鵜呑みにし危機感を煽られることが、戦争につながるということ、だからリテラシー力が必要だということ。



最後に読書について、森さんのおもしろい見解があったので紹介したい。


ーーー本文より引用
最近まともな読書をしていない。もちろん本は読む。仕事だもの。
(中略)これは読書と言えるのだろうか?確かに発見はある。でも目的に沿った発見だ。その意味では豊かじゃない、読みながら高揚感がない。
(中略)最近はこの高揚や興奮を味わっていない。読む前から内容にある程度の想像がつく読書ばかりだ。
(中略)やはり最近はちゃんとした読書をしていない。言い換えれば目的があって役に立つ読書しかしていない。この原稿を書き終えたら書店に行こう。そして仕事や実生活に思いきり役に立ちそうもない本を買おう。



「海と毒薬」と出会って、「アンダーグラウンド」と出会って、私は高揚感を得た。
たぶん最近私が読み出したこういう実用書たちも、読む前から内容にある程度の想像がつく読書のたぐいなのだろうけど、
とにかく読書がおもしろいです。
本を読むのがおもしろい。
話したことの無いのに、言語、本というタイムカプセルを通して考えを共有できる友人ができた感じ。
日本にいる間はたっぷり楽しもう。