映画「蟹工船」とわたし


SABU蟹工船
蟹工船 [DVD]

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見ながら、なにかが違うなぁとずっと違和感を感じていた。
多分わたしにとっていちばんの理由は、「画面の切り取りかた」
たぶん私がカメラマンとして参加したら、「違う切り取りかた」をしたと思う。
もっと良くなったとかではなく、「違う切り取りかた」。


正直に言えば、小説を読むのが面倒で映画を見た。
昔の小説を、「どんなふうに」映像化したかも気になった。


でも今回でわたしのSABU監督への印象は固定したな、という感じ。
彼の作品は私のテイストとは違うということだ。
見終わった後の満足感がない。
最後に見た作品は、「幸福の鐘」だったかな、5年前くらい。
この時と同じ感覚がした。
「主人公が無言のうちに進められていくストーリー」「主人公が、歩く=左へ左へ(画面上)と展開していく映像」っていうコンセプトは明確で面白かったんだけど、”それだけ” ってかんじ。
不満もなし、満足感もなし、それが何か5年前は言葉にできなかったのだけど。


今回「蟹工船」を見てわかった。
映像化のセンス、それから「音」、音楽のセンスが私(の好きな感じ)と決定的に違うということだ。
映像については、すごく淡白で平面的な切り取り方が面白くなかったし、
音楽については、観客の感情を高めるーープラスにもマイナスにも、かつできるだけ自然にーーーということが映画音楽の素敵なところなのだとしたら、ちぐはぐな、妙な存在感があった。(でもこれはSABU作品に限らず邦画ではよくある)。
次いで言えば美術も、いまいちだった。シンプルすぎる船内がいかにも映画のために作られた場所=セットだと気づかずにいられないほど、違和感を増幅させた。
私は平成の日本映画を悲観的に、批判的にとらえているし、絶対外国映画のほうが面白いという立場でいるから、これはあくまで私の、偏った、『好きな感じ』の話なのだけど。


それから、なぜ「今」蟹工船か。
数年前に蟹工船ブームという(観賞後にブーム煽動だなと改めて気がつく)のがあったけど、
現代社会の(とくに若者に対しての)この「煮詰まった感」と、当時の「煮詰まった感」ていうのはイコールじゃないと思った。
一番重要な背景として当時の彼らは、生まれながらにして俺たちは「負け犬」で「搾取される側」でしかも「なにも変えることができない」と思っている。
その彼らが立ち上がって・・・!という話だ。
彼らは、”生まれながら” にして「絶望」しているし「あきらめて」いる。
けど現代社会は違う。
気がついていないだけで、私たち世代は生まれながらにして煮詰まった状態にいるかもしれない。
でも彼らのように絶対にくつがえせないとおもうほど絶望して生まれて来たひとを現代にわたしは見たことがないし、そうも思わない。


原作を読んでみないことにはこれより先は言えないけれど。


映画はもちろん平成の今撮影されたもので、平成の役者たちが演じているわけで、それは監督のせいじゃないけれど、ブーム(と言われた)にのってこの作品を作(ろうと思)ったのは監督だ。
このブームで語られて来た「社会と戦え!」みたいなテーマは、わたしには響かなかった。
だってわたしは社会に絶望した覚えもないし、たとえ実際そうであったとしても社会に搾取されているという自覚がないからだ。





映画では語れないことがもちろんあると思うので、私が見落としたメッセージをひろうためにも、原作をしっかり読もうと思う。