アンダーグラウンド:村上春樹 を2010年の今読む

アンダ-グラウンド

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村上春樹が追う、地下鉄サリン事件
迫真のノンフィクション、書き下ろし。


1995年3月20日、晴れ上がった初春の朝。まだ風は冷たく、道を行く人々はコートを着ている。昨日は日曜日、明日は春分の日でおやすみ──連休の谷間だ。あるいはあなたは「できたら今日くらいは休みたかったな」と考えているかもしれない。でも残念ながら休みはとれなかった。
あなたはいつもの時間に目を覚まし、洋服を着て駅に向かう。それは何の変哲もない朝だった。見分けのつかない、人生の中の一日だ……。
変装した五人の男たちが、グラインダーで尖らせた傘の先を、奇妙な液体の入ったビニールパックに突き立てるまでは……。





前回は冒頭部分、今回は読了後の感想。


この本がなぜ「村上春樹によって」書かれなければならなかったか、そして「村上春樹によって」書かれたがゆえの良さについてまた話てみたい。


p689ーp691より引用

 ひとつだけたしかなことがある。ちょっと不思議な「居心地の悪さ、後味の悪さ」が後に残ったということだ。私たちは首をひねる。それはいったいどこからやってきたのだろう、と。そして私たちの多くはその「居心地の悪さ、後味の悪さ」を忘れるために、あの事件そのものを過去という長持ちの中にしまい込みにかかっているように見える。そして出来事そのものの意味を「裁判」という固定化されたシステムの中でうまく文言化して、制度レベルで処理してしまおうとしているように見える。


 もちろん裁判によって多くの事実が明らかになっていくのは貴重なことである。しかしその審理の過程で明らかになった事実を統合し血肉化すつ綜合的な視座を私たちが自分の内に持たなければ、すべては無意味に細部化し、犯罪ゴシップ化し、そのまま歴史の闇に消えて行くしかないのではないか。都市に降った雨が暗渠をつたって、大地を潤すことなく、まっすぐ海に流れていってしまうように。司法システムが法律を基準に処理し裁くことができるのは、あくまで出来事のひとつの側面に過ぎないはずだ。何もかもがそれで片付いて一件落着するわけではない。
 言い換えれば、「オウム真理教」と「地下鉄サリン事件」が私たちの社会に与えた大きな衝撃は、いまだに有効に分析されてはいないし、その意味と教訓はいまだにかたちを与えられていないのではないだろうか。この本を書き終えた今、私はそういう疑問を抱かないわけにはいかないのだ。「要するに、狂気の集団が引き起こした、例外的で無意味な犯罪じゃないか」というかたちで事件は片づけられつつあるのではないかと。言い方は極端かもしれないけれど、この事件は結局は四コマ漫画的な「笑い話」として、ビザールな犯罪ゴシップとして、もしくは世代別にプロセスされた「都市伝説」というかたちをとってしか、意味的に生き残れない状況へと向かいつつあるようにさえ思うのだ。
 もしそうだとすれば、いったいどこでボタンの掛け違えが始まったのだろう?
 私たちがこの不幸な事件から真に何かを学びとろうとするなら、そこで起こったことをもう一度別の角度から、別のやり方で、しっかりと洗いなおさなくてはいけない時期にきているのではないだろうか。「オウムは悪だ」というのはた易いだろう。また「悪と正気は別だ」というのも論理自体としてはた易いだろう。しかしどれだけそれらの論が正面からぶつかりあっても、それによって<乗合馬車的コンセンサス>の呪縛を解くのはおそらくむずかしいのではないか。




※暗渠:あんきょ
覆いをしたり地下に設けたりして、外から見えないようになっている水路

※ビザール:bizarre
(フランス語)突飛なこと。奇妙なようす。

※コンセンサス:consensus
(英語) 一致した意見、見解。総意。合意。



ここで村上春樹が言及していることは前回の「市民」対「悪」も含めて、なにも地下鉄サリン事件だけについていえることではない。
それは私にとって、「911」であり、「ロンドン鉄道テロ」であり、「コロンバインハイスクール事件」でもあると思う。
また不思議なことにこのときわたしはなぜか「忌野清志郎の死」さえも思い出した。


”都市に降った雨が暗渠をつたって、大地を潤すことなく、まっすぐ海に流れていってしまうように。”
これが私の感じていた違和感であり、この小説によって「サリン事件」へのこの違和感をすこし拭うことができたと思う。
少なくとも、多少の知識、それによる理解(へのきっかけ)を得ることができたのは確かだからだ。
95年に起きたこの事件を、遠い過去、私の小学生時代におきた、ひとつの最悪の事件として片付け終わりにしているーという状況からは脱したのだ。


このあとの村上春樹考察が、少し恐ろしい。


 心理学的に言えば(心理学は一度しか持ち出さないので、とりあえずここでは我慢していただきたい)、私たちが何かを頭から生理的に毛嫌いし、激しい嫌悪感を抱くとき、それは水からのイメージの負の投影であるという場合が少なくない。


というところからはじまり、この地下鉄(=underground)サリン事件と、自分自身の内なる影の部分(アンダーグラウンド)
をもちあげ、私たちの感じる「後味の悪さ」についてその理由を探っていくのだ。
この部分は本で読んで欲しい。


読んでこの本の価値をとても重要視するには至ったけれど、いささか「遅すぎた」感もあった。なんにしろこれは97年に出版されたもの、つまり事件の2年後には書かれていたのだから。
そしてこういう本の場合、その時代の流れの中に存在するということに大きな意味がある。


にもかかわらすわたしがここでおすすめしたいのは、彼の考察ーー日本社会について、マスコミはもちろん政治についてもーーが10年以上たった今でも変わらず当てはまるということだ。
これは悲劇だ。
つまり私たちは変わっていないのだ。
地下鉄サリン事件というひとつの例をとりあげているのに、それが過去のものではなく、結果として普遍的テーマ、というか、かなり根本的な問題を扱っているのだ。
村上春樹もまたこの1997年出版の本の中で、1939年のノモンハン戦争の例をとりあげ、閉塞的で責任回避型の社会体質について、当時とたいして変わっていないと述べる。


地下鉄サリン事件を通して知る責任が、それを知らない世代の人たちにもあるとは言えない。
でもこの事件を通して、本当の問題はどこにあったのか、そして日本の社会体質について気がつくためにも、そして同じ失敗を繰り返さないためにも、ぜひ読んで欲しい一冊だ。