俺は死にたくねぇ!

サリン事件の被害者のひと言。
私がずっとこの本を読みながら考えていること。
自分がその場にいた時にどんな対応をとったか?


自分の東京生活を思い出すと私が道路をひとつはさんだ向かい側にいた場合、それを見過ごしてしまった気がしてならない。
なにか大変なことが道のひとつ向こう側で起きているのに、ウォークマンや文庫本や自分のこと(私は急いでいる!)なんかに夢中で、もしかしたら視界の中にとらえることすらなかったんじゃないか?


もし目の端で捉えていたとして、それを真剣にうけとめることができたか?
駆け寄っていって介抱することができただろうか?
はっきりとYESと言えないような気がして、自分のことが恐ろしくなる。


東京。
他人だらけの街。
同じ電車にのっていても、同じ道を歩いていても、同じ空間という理由では共有感が持てない街、東京。


去年のクリスマスの夜、下北沢から新宿へ向かい、西武新宿線で野方までと乗り換えのため駅ビルを歩いていると、苦しそうにおなかを抱えた女性がのぼり階段の脇に立っていた。
わたしが、あのひと気持ちが悪いのかな、大丈夫かなと思って、声をかけにいこうとしたところで、一緒にいた友人(東京生まれ東京育ち)が「あのひとは娼婦だよ。いつもあそこにいるから放っておいて良いよ」と言った。
なんだかものすごくショックだった。
「娼婦」という存在にもショックだったけれど、
わたしがショックをうけたのはむしろその言葉のなにか説得力のある響き、それゆえの冷たさだった。
つまりわたしは声をかけなかったのだけど、どこかでやっぱりあの人具合悪いんじゃないかなと電車にのってからも気にかかっていた。でもきっと本当になにかあの女の人に起こったら誰か声をかけてくれるはずだ。大丈夫。


正月帰省のあと、また西武新宿駅で乗り換えの機会があり、同じ場所を通ったところで、わたしはまた女性があのクリスマスの夜と同じ姿勢で同じ場所に、同じ格好で立っているのを見た。
そしてわたしは声をかけなかった。
ドキドキした。
やっぱり私の友人がいったことは正しかったのだ。
あのおんなの人は、「声をかけるべき存在ではないのだ」ということを学んだ。
はじめての「なにか」を体験した。学んでしまった。


高校生時代、品川から終電で帰ってくることが度々あった。
何度かヨッパライのサラリーマンを見た。
真隣に座っていたサラリーマンに吐かれたこともあった。
心配よりも嫌悪感が先だったことを覚えている。


そういうふうにして、すこしずつ感覚が麻痺していくのだろうなと思うと恐ろしかった。
そういうふうにして、無関心こそが一番良いのだという感覚を身につけていってしまう自分が怖かった。


東京にいる時、そうしたセンスーーこういう人には声をかけるな、関わり合いになるなーーーということを街を歩いていて自然と身につけていくーーそれは伝染していくみたいなものだ。人から人へ。私が西武新宿の駅で経験したように。


わたしはきっとこの先友達とあの駅を通りかかったら、同じ台詞をいつか言うのだろうと思った。「あの女の人には声をかけるな」と。
そしてその友人もそのような感覚を身につけていくのだろう。


具合の悪い人が、いつしか人に迷惑をかける存在になり、
心配するという気持ちが、嫌悪感になっていく。
寂しい。とてつもなく寂しい。


私は東京を去年の生活を通して、ある部分では好きになった。
でもこの伝染病にかかれば、何かを見失うということもある。
わたしはその、「取り返しのつかないものを見逃してしまいそうな」感じがとても恐ろしい。
たぶん東京だけではなくて日本中に少なからずこの感覚はあるのだろうけどーー


この本はサリン事件の体験者の証言に基づいているのだけれど、
”こちらと道路の1本向こうは別の世界だった。そこにはいつもと同じ月曜日の朝の風景があり、街がいつもどうり動き始めていた。”
という「事実」や、
”わたしを酔っぱらいかなにかと思ったのだろうか、誰も声をかけてくれる人はいなかった。”
など、本当に残念な気持ちになる証言が多い。


この本を読んだ今、
私は果たして見逃さずにいることができるだろうか?
まだ人として、当たり前の感覚でいることができる、と信じたい。
これからの人生このようなことを目にすればまず無視をすることはないと。
きっとわたしはそういう人間だ。と。






アンダ-グラウンド

アンダ-グラウンド

村上春樹が追う、地下鉄サリン事件
迫真のノンフィクション、書き下ろし。


1995年3月20日、晴れ上がった初春の朝。まだ風は冷たく、道を行く人々はコートを着ている。昨日は日曜日、明日は春分の日でおやすみ──連休の谷間だ。あるいはあなたは「できたら今日くらいは休みたかったな」と考えているかもしれない。でも残念ながら休みはとれなかった。
あなたはいつもの時間に目を覚まし、洋服を着て駅に向かう。それは何の変哲もない朝だった。見分けのつかない、人生の中の一日だ……。
変装した五人の男たちが、グラインダーで尖らせた傘の先を、奇妙な液体の入ったビニールパックに突き立てるまでは……。




村上春樹作品とははなんだかんだで中学時代からの付き合いなのだけれど、
どうも彼を好きになる理由は決めかねている節があった。


アンダーグラウンド」は冒頭の紹介にもあるとおり、小説ではない。
事件体験者の証言からなる、ノンフィクション作品だ。
だからといって、このような本が彼以外に書けたかというと、そうではない。
つまり、これは村上春樹の作品だ。
素直に、感動した。
そして彼の職業、その存在価値というか、彼の作家としての、個人としての姿勢に尊敬の念を抱いた。
それは彼のしっかり個としての不完全さを認めた上での適切な文章表現力、構成力。


この”個としての不完全さを認めた上で”というのは実際のところ、素人にはできないのだろうなと思う。
それが彼のプロの作家としての責任であり、資格でもあると思った。


この本はまず、「はじめに」と称した村上春樹がまずどのような姿勢でこの本をまとめあげていったかということ、それから動機(きっかけともいえる)の部分からはじまり、
それから事件当時者たちの証言ーーこれが多くの部分で約600ページほど、
そしえ最後に村上春樹にとっての事件の存在、そしてこれからというかたちで締めくくられる。


まず「はじめに」の以下の文章を紹介したい。
※インタビュイー=村上春樹が話をうかがった方々



(前略)
 そのようにインタビュイーの個人的な背景の取材に多くの時間と部分を割いたのは「被害者」一人ひとりの顔立ちの細部を少しでも明確にありありと浮かびあがらせたかったからだ。そこにいる生身の人間を「顔のない多くの被害者の一人(ワン・オブ・ゼム)」で終わらせたくなかったからだ。職業的作家だからということもあるかもしれないが、私は「総合的な概念的な」情報というものにはそれほど興味が持てない。一人ひとりの人間の具体的なーー交換不可能(困難)なーーあり方にしか興味が持てないのだ。だから私はインタビュイーを前にして、その限られた二時間くらいのあいだに、意識を集中して「この人はどういう人なのか」ということを深く具体的に理解しようとつとめたし、それを読者そのままのかたちで伝えようと、文章化につとめた。実際にはインタビュイーの事情で活字にできないことが多かったけれど。


 そのような姿勢で取材したのは、「加害者=オウム関係者」の一人ひとりのプロフィールがマスコミの取材などによって細部まで明確にされ、一種魅惑的な情報や物語として世間にあまねく伝播されたのに対して、もう一方の「被害者=一般市民」のプロフィールの扱いが、まるでとってつけたみたいだったからである。そこにあるのはほとんどの場合ただの与えられた役割(「通行人A」)であり、人が耳を傾けたくなるような物語が提供されることはきわめて稀であった。そしてそれらの数少ない物語も。パターン化された文脈上でしか語られなかった。
 
 
 おそらくそれは一般マスコミの文脈が、被害者たちを「傷つけられたイノセントな一般市民」というイメージできっちりと固定してしまいたかったからだろう。もっとつっこんで言うなら、被害者たちにリアルな顔がない方が、文脈の展開は楽になるわけだ。そして「(顔のない)健全な市民」対「顔のある悪党たち」という古典的な対比によって、絵はずいぶん作りやすくなる。
 私はできることなら、その固定された図式を外したいと思った。その朝、地下鉄に乗っていた一人ひとりの乗客にはちゃんと顔があり、ドラマがあり、矛盾やジレンマがあり、それらを総合したかたちでの物語があったはずなのだから。ないわけがないのだ。それはつまりあなたであり、また私でもあるのだから。
 だから私はまず何よりも、彼/彼女の人となりを知りたかったのだ。それが具体的に文章になるにせよ、ならないにせよ。




この文章を読んだあとに、各体験談を読んでいくことはとても意味があることだった。
彼らの背景を知った上で読むと、やはり彼らはOne of themではなく、被害者Aでもなく、個々の名前をもち歴史をもったひとりだった。
読み進めるほど、彼らはわたしの一部となり、私の人生の登場人物のひとりとなった。
「健全な市民たち」対「顔のある悪党たち」という図式はなにもこの事件に限ったことではない。
それがマスコミのやり方で、それが今まで私たちがニュースを通して目にできた「唯一の」図式なのだと思う。
そして私たちはあまりにもその図式に慣れすぎてしまった。
「傷つけられた市民」以上のことを知ることはなかったし、知りたいとも思わなくなってきていたのだ。


だからこの本の登場人物ひとりひとりが顔をもち、「傷つけられた市民」より奥にすすむことによって、より多くのものを感じることができる。
だからこの本の存在価値は大きい。
「傷つけられた市民」という大きなくくりから抜け出すことによって、事件が個人レベルで体感したかのようにつきささるのだ。
そうして私の中での「地下鉄サリン事件」感が再構築された。


これが私がはじめに感じたことだった。