はるちゃんのカレーライス
農業高校のドキュメンタリーを見る。
クラス全員ひとりひとりが、にわとりを卵から育てる。という授業。
羽化の瞬間、『ありがとう、生まれてきてくれて、ありがとう。』
と、まだ10代の子供たちがひなに話しかけていた。
まさに手のひらの中で生まれたその命。
病気にかかったり、足が折れたりで生き残れなかったひなもいたのだけれど、それぞれに名前をつけて1年間を通して飼育していく。
この授業の最後に待ち受けているのは、自分でそのニワトリをと殺すること。
ある日、先生が、成育中の卵の一つを割って見てみようと、いう。
中で育っている命が、どんなものか将来出産を経験するであろう女の子に見てもらおうというのだ。
その高校のある県は、10代の中絶率が全国平均に比べ多いらしい。
「気持ち悪い」でもいい。
鳥にも、人間と同じ赤い血が流れているんだ。
この卵の中にあったものは、「生きたい!」という強い意志なんだ。
ショッキングな現実を前にし、いのちというものへの、生徒の意識がだんだんと研ぎすまされていく。
素直なまなざし。
と殺の日、全員が涙していた。
失血死させるために、良く研がれた包丁で頸動脈を切るのだ。
「はるちゃん」という名のニワトリが、自分の腕の中で、まだあたたかい血を流しだんだんと冷たくなっていくその様を感じ、
命を戴いているということを体験した生徒。
我が子同然に愛情を注いできたニワトリでつくったカレーを、食べられないと言った子は誰もいなかった。
「はるちゃんのカレー美味しい」と言った。
それがすばらしいと思った。
その後の生活でも食べ物を残さなくなった子や、お肉は美味しいし大好きと言う子。
私には結構意外な結末だった。
かわいそうよりも、大きな何かが子供たちのなかに育っていたのだろう。
それは愛なんだろうか。
わたしには小学校三年生のときに、たまごからニワトリの赤ちゃんが生まれると知って、たまごが気持ち悪くて食べられなくなった時期があった。
たまごが食べられなくなって、魚や、肉もぜんぶそういう犠牲のもとにあるんだと思うと、そういうのがなんにも食べられなくなった。
父が私に、「食べないほうが動物さんたち悲しいと思うな、せっかく生まれて、季美ちゃんのために食べてもらおうってしているんだから」
と言った。
わたしはちょっとたまごが食べたいなと思い始めていたし、父の言葉に甘えてもとの食生活に戻ることにした。
気持ち悪いとかの気持ちになるべく目をそむけるようにして。
思い出したのは、牧場で搾乳していた日々。
牧場生活なんて、実際はそんなかっこいいもんじゃない。
ただ撫でたり、散歩させたり、えさを与えたりしてかわいがっていれば言い訳じゃない。
動物を相手にするということは、糞尿の始末が9割だ。
牛乳がこんなに汚い仕事の積み重ねのもとにつくられているとは考えても見なかった。
たまごも牛乳も、肉の次に大事なタンパク質源だから、冷蔵庫に入っている姿は当たり前だろう。
肉が切り身になっていたり、ひき肉になっていたりするのと同じようにそこには、見えない仕事があるのだ。
今の文明社会では時間的にも、精神的にもできないひとが多いであろう仕事が。
例えば、気持ち悪いという理由で食品を否定するということは、食品自体だけでなくそこにある仕事すべてを否定することになってしまう。
それはとても悲しいことだ。
食べる食べない、は自分を守れるけど、見えない誰かを否定している。
すごく素敵な授業だったし、素敵な先生だった。
わたしも思春期にと殺を経験していたかったし、してみたいと思った。
農業と、牧場を経験したことで一部ながら食べ物の第一線に関わることができ、興味も理解も深まったのだけれど
今回は、本当にいのちの授業だった。
人間がいのちの犠牲のもとに生きていることは誰でも知っているだろう、でもそれをリアルに体験することは自分の「生」としっかり向き合うことなんだな。
わたしは今、別の理由で肉を食べないけれど、
いつか本当のはるちゃんのカレーライスの味を経験したいと思った夜だった。